津留晃一氏とは?
津留晃一プロフィール
昭和21年2月22日、福岡県生まれ。昭和44年上智大学理工学部卒業。
5年間のサラリーマン生活を経て独立し、コンピューターソフトウェア会社を設立。
一時は社員数が300人を超え、ベンチャービジネスの旗手とし時代の最先端に躍り出る。
しかしバブル経済の崩壊により、一部上場を目前に倒産。
その苦しみの中から、自己を見つめ、内面世界の探求を始めた。
平成12年10月17日に死去。なくなる寸前まで全国各地で、
個人セッション・講演会・グループセッションをおこない、多くの人々に影響を与えた。
●姉、山口潤子さん
津留は2月22日に生を受けました。「善と悪・陰と陽・好きと嫌い・出来ると出来ない・
全ての2極を統合するために、この日を選んで生まれたのだ。」とよく言っていました。
弟は坂本竜馬が大好きでした。ご存知のように竜馬は新しい時代に先がけ、それまでの
常識を打ち壊し、全国を駆け巡って同士をつなげる役割をにない、明治維新を前になくなりました。
津留の描いてきた「神のシナリオ」もそれと同じだったのでしょう。
私たちに新しい考え方の種を植え、「後は自分の心の中に全てがあるのだから、
急いでもいいし、ゆっくりでもいい、自分のペースで進んでいけば到達点は同じだよ、
先生役はもうおしまい。」と21世紀を目前に、さっさといってしまいました。
津留の最後の言葉は「ナチュラルに・・・」でした。
集合人編集局(しゅうごうじんへんしゅうきょく)プロフィール
1995年(平成7年)1月、津留晃一は、月刊情報紙『創生会レポート』を創刊します。
津留が、自ら創業・経営していた会社の倒産という苦しみの中から、
内面を見つめ、光を見出し、メッセージを受け取るようになってから、3年後のことでした。
時を同じくして、津留の活動を支える事務局として、『21世紀創生会』が誕生しました。
「輝く21世紀の創生へ向けて、喜びの社会の創生に向けて、美しき世界の創生へ向けて、
当会はその夢を語り続けます。」
これが創刊時の宣言でした。
それ以降、約4年にわたり、このレポートを通じて、津留はメッセージを発信し続け、
そのメッセージを基にした講演会、勉強会、個人セッションを、各地で精力的に行っていきました。
(これが、HPで公開しているメッセージ集『新人類への覚醒進化プログラム』になります)
1998年(平成10年)9月、創生会レポートの最終号が世に出て、
21世紀創生会も解散することになりました。
「先生役のような中心の立場で、メッセージ、情報を発信し、みなさんを引っ張っていく・・・
そんな役割から離れ、自分をさらけ出し、自分が体験し、自分のものになったことだけ伝えていきたい。」
そう、津留は述べています。
そして同年11月、情報誌『集合人』が創刊。
事務局も『集合人編集局』として生まれ変わりました。
” 集合人(しゅうごうじん) ” とは、津留の造語であり、
「集合意識を有する者」
「小我としての自分と、大我としての自分を、同時に矛盾なく認識し、その認識に従って生きている人」
という意味です。
『集合人』創刊と並行するように、雑誌『アネモネ』に「実践!幸せテクニック講座」の連載をスタート。
これを基にした、『幸せテクニック講座シリーズ①~⑪』の勉強会が行われました。
また、浄化の個人セッションも全国で行っていきました。
2000年(平成12年)10月17日、津留が、肉体から光の次元へ移行しました。
2003年(平成15年)6月、集合人編集局の代表であり、津留を陰に日向に支えてきた津留の姉、
山口潤子によって、HP『津留晃一の世界』が立ち上げられ、津留の遺したメッセージを公開。
そのメッセージは、今なお、多くの人々に影響を与え、そして目覚めのためのサポートとしての役割を果たしています。
2014年(平成26年)3月3日、山口潤子が、肉体から光の次元へと移行しました。
「津留さんのメッセージを必要とする方々に、広く、発信していきたい・・・」
その想いは、山口潤子とともに津留をサポートしてきた娘(津留の姪)井瀧裕子に引き継がれ、
そして、そのパートナーのひでとともに、共同創造しながら、
個人セッション、浄化ワークショップ、津留さん交流会、といった、新たな活動を展開しています。